海外ナンパ師のABC

外国の女性を抱くことについて

弱い者達、強くあろうとする者達、強い者達

 井上雄彦の『バガボンド』が好きだ。オススメの作品なのだが、代表作の『スラムダンク』のようなものを期待する人にとっては、いささか拍子抜けするマンガだ。というのも、主人公の宮本武蔵(そう。実在した剣豪武蔵のことだ)が剣の修練を通して、ひたすら禅問答をすることに終始しているからだ。

 ネットの評判を見ると、「牛歩漫画」「よくわからない自問自答の繰り返しで飽きがくる」みたいな感想で溢れている。僕もそう思う。漫画全体で武蔵が煩悶していることのほぼ全部が、僕にとっては不可解でしっくりこない。最近になって久しぶりに読み返したのだが、ほとんどの部分を惰性で適当に読み流していたというのが正直なところだ。

 では、何故この漫画が好きなのか。それはサブストーリーの主役、本位田又八の存在に他ならない。

 又八は武蔵の幼馴染の農民の子である。村で孤立しがちであった武蔵の数少ない気の知れた友達であり、17歳になって出世のために共に村を出る。しかし、これが2人の人生の大きな別れ目であった。数多くの剣豪を切り伏せ名を上げていく武蔵。一方で、佐々木小次郎の名を借りて、虚構の人生を生き、酒に溺れ、女に溺れていく又八。

 武蔵と又八はともに故郷の村を出たものの、その動機は全く違う。武蔵は、己の全てをぶつけられるようなただ強い相手を求め、天下無双を目指す。一方、又八は村で過保護な母親に見守られながらぬくぬくと生きている自分の人生に恐怖を憶え、村を出れば「新しい自分」が見つかるという妄念を胸に抱く。どこにいたって、自分は自分でしかいられないというのに。ここらへん、詳しくは言えないが、自分と非常に似ていて本当に恥ずかしくなる。

 動機が「自分からの逃避」であった又八は、京の都に来ても、自分を嘘で塗り固めて、必死に面子を保とうとする。自分を佐々木小次郎だと偽り、金を巻き上げ、女を抱く毎日。しかし、彼自身、自分の弱さには気づいていた。人から尊敬され、女を抱くという理想の生活をしながらも、心の中では常に「寂しい、寂しい……」とつぶやいている。それも当たり前のことだ。嘘で自分を塗り固めたって、真ん中にある「空っぽの自分」は消え去らない。

 しかし、又八は現実と向き合えない自分の弱さを見つめることになる。というか、見つめざるを得なくなる。自分を小次郎と名乗ったことがまわりまわって、叔父の死につながり、最後には母の臨終の間際で、自分の弱さに絶望する。

 

おふくろ――

権叔父は浪人者に斬られて死んだ。俺のせいで

佐々木小次郎という名は嘘だ

印可状も嘘

それなりに出世したなんてのも

おつうは悪くない。俺が先に裏切った。お甲という女とくっついて

もっとある

あれも嘘

これも嘘

嘘嘘嘘

嘘が嘘を呼ぶ

嘘地獄

おふくろのように強くない

武蔵のように強くない

ごめんおふくろ――

俺は弱い……

 

息の切れかけた母はこう言う――

 

よう言うた又八

弱い者は己を弱いとは言わん

おぬしはもう弱い者じゃない

強くあろうとする者

もう一歩めを踏みだしたよ

 

更にはこうも――

 

ただ真っ直ぐに一本の道を進むは美しい

じゃが普通はそうもいかぬもの

迷い

間違い

回り道もする

それでええ

振り返って御覧

あっちにぶつかり

こっちにぶつかり

迷いに迷ったそなたの道は

きっと誰よりも広がっとる

 

 又八はどこにでもいる僕達のような凡人だ。自分を正面から見つめることができず、見栄を張ってなんとか生き続けようとする。どこに言ってもそういう人は見つかるだろう。飲み屋で若い人間に説教をするおっさん。twitterでひたすら他人をdisり、自分の学識を披露する人。彼らの声が聞こえてくる。

「俺はすごい。だから、俺を愛してくれ」

 人から褒められったって、権力を得たって、愛されたい欲望は満たされない。

 

 自分を救えるのは自分だけだ。自分に正直になって、嘘を一枚一枚はがしていく作業。苦痛を伴うが、そこにしか道はない。

 僕の中には、まだ、ともすれば嘘で自分を守ろうとする自分がいる。だから、戒めとしてこの文章を書きました。

 

バガボンド(31)(モーニングKC)

バガボンド(31)(モーニングKC)